なぜ、無名の元芸人が「笑い」の相談室を②
芸人を引退する意思を固め、所属事務所のマネージャーさんに電話を入れた私は人知れず業界からいなくなりました。
それから一般社会で働くことになるわけですが、人とのコミュニケーションの取り方を完全に喪失していました。どう接していいのか、なにを話せばいいのか。「笑い」という目的も、「笑い」という手段も、なくなったのです。ボケは? ツッコミは? 振りは? オチは? コンパスの針がうんともすんとも動かない。
高校1年生の頃から、そして、芸人としてデビューしてからもアルバイトはやっていましたから、この25歳、まるっきり初めてお笑い以外の仕事をするわではない。ところがどうして、しゃべれない。そしてつきまとう「元芸人」の冠には先入観、偏見、過度な期待が周囲によってあしらわれる。
孤立し、堕落していく自分を止められませんでした。笑わせることはおろか、笑うこともない生活。いや、生活ではなかった。転がっている、ただ転がっていくままに、そんな日々でした。ボブディランとかロッケンロールとかそういうアレではなく、本当に、転がっていたのです。無論、仕事は続かない。社会そのものから、私は消滅しました。
しかしながら、人の中に私がいたのです。お前、生きろと。死なせてくれない友人。
人に助けられた私は徐々に息を吹き返し、どうにかこうにか。
のちに友人は言いました。
「あの頃、よく死ななかったよ。でもそれからもずっと、お笑いに変わる何かを探してさまよってたように見えたね。なにかこう地縛霊にとりつかれたというか、地縛霊そのものというか」
そう、私は仕事に打ち込んで社会人然と振舞っていた時期もあるのです。それが28〜30歳。組織を束ねる役をやっても、社長と私とのあいだには笑いがない。あるように見えたとしてもそれは実におもしろくないトップダウンの人を馬鹿にする笑い。差別的な嘲笑。上からだけではかった。下からもそれは来る。そして横からも。こちらの振りも気づかれず踏みにじられ、ボケているのにつっこまれない。つっこんいでるのに気の無い返事。おもいやりのないコミュニケーション。笑えよ、笑ってやるよの虚しい竜巻に飲まれた私。朱に交われば赤くなる方式で疲弊する私の、笑えない笑わせられない日々は依然終わりの気配なく。
つづく。
「君がいて僕がいる」という、チャーリー浜さんのあまりにも素敵なギャグがありますね。
そんな、絵心ならぬ「お笑い心」を、あなたの人生にもひとつどうでしょう、てなわけなのです。
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